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NEGATIVE DIALEKTIK

アドルノ 夏目漱石 蓮實重彦 田川健三 フローベール カフカ 金井美恵子 を偏愛しつつ文学に溺れるブログ(基本的にメモ、雑記。まとまった文章を書く場ではありません)(基本的にネタバレあり進行、ご注意を)

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2009.01.13/Tue  10:49:24

 いろいろ疑問が沸く本。
 (個人的にはケータイ小説には何の興味もない。
 ハルキやセカチューやケータイ小説が売れたからといって、売れるというだけなら、パチンコ産業にも無視できない重要性があることになろうが、興味がないのは同じこと。)

 疑問点についてのみ、いくつかメモ。
 氏は、自身の立場を「テクスト論」である、とされる。
 だが、漱石の「こころ」を「ホモソーシャル」とかいう(かなり貧しい)物語(図式)で読み解くという方法は、はたして「テクスト論」なのか? 無学な私にはよく分からない。
 私は「テクスト論」というと、蓮實重彦のような繊細で豊かで野蛮な読みを、どうしても思い浮かべてしまうのだけれど。

 この本には、派手な言葉が踊っている。「テクスト論」「構造分析」「デリダ・誤配」「ボードリヤール」「フーコー」。
 そのような派手な道具立てで、氏が何を伝えようとしているのか、よく分からない。
 (そもそも「冬ソナ」が大好き、という感性もよく分からない。見ていないくせにこんなことを言うのも問題だが、見る気もまったく起こらないので勘弁してほしい)

 氏によると、
 1、フーコーによれば、「近代」において「性」が「真実の言説」とされた、と言う。
 2、ポスト・モダンの時代(そんな「時代」があるという考え方の是非は後述)においては、あらゆる言説が記号化された。しかし、「性」に関する言説だけは、特権的に記号化されずに残った。(本当だろうか?)
 3、ところがケータイ小説は「性」に関する言説まで記号化してしまった。
 4、だからケータイ小説は「ポスト=ポスト・モダン」と呼ぶほかない。
 ──ということになるのだそうだ!

 もちろん、この「ポスト=ポスト・モダン」というのは、批判的な観点から言っているのだろうが、その割には、本全体を通じて、ケータイ小説に対してかなり好意的な表現になっている。
 それは、本気なのか、あるいは、文学産業に対するおもねりなのか、そこがよく分からない。
 氏によれば、ケータイ小説は、その稚拙さも含めて「新しい」のであり、そこに氏は、可能性を読もうとした、のだそうだ。
 そういう可能性に、なんの関心も持てない自分は、気持ちが老けているのだろうか……


 ・氏も言及している柄谷は「ポスト・モダン」というのは時代区分ではないと明言している(『闘争のエチカ』)。

 ・とりあえず、この本を読んで得た個人的収穫は、氏の本は、あまり真面目に読まなくてもよさそうだ、ということが分かった事。
  しかし、氏は漱石が専門なのだそうだから、何かの因縁で、読まなければならないことがあるかもしれない、とは思う。

category: 読書ノート
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